絶景なのに切ない。頂上でしばし途方に暮れていると、港へと戻る船の音が聞こえた。ここは三陸の港町、気仙沼。特にカツオの水揚げ量は日本屈指を誇る。安波山(あんばさん)の山頂から眺める気仙沼の街は、この漁港を中心に形成されている。しかし、2011年3月11日昼以前の宮城県気仙沼市を、私は知らない。


安波山頂上から眺める気仙沼の街
安波山頂上から眺める気仙沼の街

 2011年の2月も終わりに差しかかったころ。小野寺克弘さん(44)は安波山に通っていた。職場のWEBサイトを作るため、故郷の象徴でもある安波山からの街並みを何度も撮っていた。昔はふもとから歩いて登っていた。いつしか5合目までの道路が整備され、標高239メートルの安波山は、割と気軽な場所になっていた。


 気仙沼ホルモンとビールをこよなく愛する柴田静佳さん(35)は「当時はおとなしい子どもでした」と笑う。それでも50回近く登った。頂上まで頑張ったのも20回くらい。そもそも遠足が安波山だった。毎年5月5日に「GO GO 安波山」という父が関わるイベントがあった。毎回へとへとになりながらの登山だった。


 ふもとの実家で生まれ育った小野寺誠さん(37)にとって、安波山は「庭」だった。小学校から帰ると、ランドセルを置いて、友達と意気揚々とドラクエごっこに山へ向かった。勇者のつもりなのに、カモシカに遭遇するとすぐ逃げていた。中学、高校では部活で山を走り込んだ。振り返れば、安波山を走り回った思い出ばかりだ。


安波山頂上には世界地図のオブジェもある
安波山頂上には世界地図のオブジェもある

 遊びに部活に仕事に。それぞれが疲れ果てた頃、港を染めるオレンジ色の夕日が実に情緒的で美しい。日本を代表する港町。気仙沼の子どもたちは、この景色を見ながら大人になった。大人たちは、この景色と生きていた。気仙沼の景色は、きっといつまでも変わらないはずだった。


 愛する大地が揺れた2011年3月11日までは、それを疑う人などいなかっただろう。大津波が押し寄せた、3月11日の15時過ぎまでは。


 失意の日々に、東京から友人たちが励ましに来てくれた。静佳さんは安波山へと車で連れて行った。子どもと頂上へ登ったことも、何度か。「ガラッガラ。なんもないなぁ」。港を見渡す高台のホテルの姿は、変わらずそこにある。でも、ホテルの周りは土色だらけだ。深い悲しみを打ち消すかのように、懸命に仕事に打ち込んだ。


 克弘さんは2011年6月に、再びカメラを手に安波山に登った。あったはずの建物がなく、愛する故郷にはあちこちにガレキが横たわる。「景色のあまりのかわりように、愕然としたのを覚えています」。復興ボランティアで訪れた東京の学生を、何度も安波山へ案内した。自分が知る気仙沼を、彼らの知らない気仙沼を伝えるために。


 「震災の記憶がよみがえって、つい…」。誠さんは安波山に登り、泣いた。何度も泣いた。今でも、たまに登る。昔の記憶と重ねながら、あそこに何があったとか、いろいろと思い出しながら。「なぜか、癒やされるんだよね」。復興へ前進する眼下の街並みで、この春から新しい仕事に就く。


安波山からの気仙沼をパノラマ撮影で
安波山からの気仙沼をパノラマ撮影で

 誠さんには長男が誕生し、高台にマイホームを建てた。克弘さんは結婚し、コンビニエンスストアの経営を始め、昼夜奮闘する。静佳さんは家業の精肉店を元気に切り盛りする。すくすく育つ長男がたまに勝手に電話番をしていて、頼もしい。3人は「気仙沼ホルモン同好会」のメンバー。港町の新たな価値創造のために、前へと進むために、震災後に活動を本格化させた。


左から小野寺誠さん、柴田静佳さん、小野寺克弘さん
左から小野寺誠さん、柴田静佳さん、小野寺克弘さん

 街はかさ上げされ、復興住宅が多く建てられた。安波山ふもとの気仙沼港には今年、新たな商業施設がオープン予定だ。震災以前の街と暮らしには、もう戻れない。でも時間は止められない。苦境から立ち上がった何千何万の人たちの、勇敢な第一歩を心から尊敬する。立ち上がろうと奮闘する人たちを尊敬したい。もし私が同じ立場だったら、立ち上がれるだろうか。


気仙沼港に停泊する船を安波山から見下ろす
気仙沼港に停泊する船を安波山から見下ろす

 7年が過ぎた。84カ月、2557日の間、震災をきっかけに生まれた出会いがあるのも確かだが、7年前にはその何倍ものつらい別れがあった。人の数だけ、思いがある。東日本大震災で被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げますとともに、お亡くなりになられた方々に心よりお悔やみ申し上げます。【金子真仁】